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オーナーです。今回のテーマは「縄文遺跡が世界遺産に!」です。

連日大々的に東京オリンピックでの日本人選手の活躍が報道されているのであまり目立ちませんが「北海道・北東北の縄文遺跡群」が2021727日世界遺産に登録される事が決まりました。前日に「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」も登録が決まって国内25件目だそうです。
実は私は縄文文化、中でも三内丸山遺跡には殊の外思い入れが強くて、今回どうしても書かずにはおれません。

私が初めて三内丸山遺跡を訪れたのは平成10年でした。所属していた商工会議所青年部の青森大会のオプションで幾つか見学コースがありまして、何となく選んだわけです。
それまでの縄文時代に対する私のイメージはマンガの「はじめ人間ギャートルズ」でした。ところが原始人のイメージはこれを見た瞬間ぶっ飛んだんです、それが「縄文ポシェット」。なかには当時のクルミも入っていました。
Photo by JOMON ARCHIVES

商工会議所の見学だと云うことで、館長さんが特別に見せてくれました。これが5000年前の縄文人が作った?嘘でしょ!って感じで、衝撃的でしたね。この編み方は網代(あじろ)織りと言って普通の平織りとは違うんです。今の籐のカゴと同じですね。恐らく最初は単純な平織りだったはずで、誰かがオシャレに工夫した。そしたら評判が良くて広まって、もっと工夫した編み方もあったかもしれません。きっと彼らは生活のあらゆる面に創意工夫の高い能力を生かしたことでしょう。そして一万年に及ぶ完璧な循環型社会を築いたんです。
海を汚し、川を汚し、空気を汚して、慌ててSDG’sと言い出してる私たちは彼らより進化していると言えるのでしょうか?
かの養老孟司先生も「縄文謎の扉を開く」への寄稿で同様の事を述べられています。

すっかり縄文人に魅了された私は三内丸山遺跡のDVDを買い、縄文文化の本を読みあさり、すっかり縄文オタクになってしまいました。平成25年には家内を連れて3回目の訪問を果たしています。

三内丸山集落は縄文時代前期~中期(今から5,900年~4,200年前)に現在の青森市にあった大規模集落で42ヘクタール、東京ドーム9個分の広さを誇り、推定で最大500人ぐらいが住んで居たようです。同時代にこのような大規模集落は他に無く、特別な存在だったようです。居住地、集会所、ゴミ捨て場、墓などが計画的に配置されていて、お墓の中央にはお参りの為に幅12m、長さ420mの道路が通っています。子供の墓は大人の墓と別に居住地近くに配置され、子を思う親の愛情の深さが判ります。

冒頭の写真は三内丸山集落を代表する大型掘立柱建物ですが、柱のクリの木は直径1m高さ20m、重さ約10トンで4.2mの等間隔、内側に2°傾いている事から、現在のような形が推定されています。5000年前にこの柱を立てるのに必要な労力、技術力、組織力があったと云う事は恐るべきことです。
縄文時代は石器に使う黒曜石が貴重ですが、三内丸山地域では殆ど黒曜石が無くて、交易によって北海道の礼文島や信州から手に入れていた事も判っています。自分達が使う以上の量を加工していたらしく、職人集団が居て交易に利用していた可能性があります。

ここからは漆塗りの食器も出土して、漆塗りが渡来ではなく独自の技術である事を証明しました。
何せ英語で漆器は「Japan」ですからね。

(写真提供 特別史跡 三内丸山遺跡)
知れば知るほど面白い縄文時代です。
彼らは1万年の持続可能な社会を築きましたが、鉄器を持ちませんでした。そして戦争をしませんでした。それ故に大陸から鉄器を持ち込んだ弥生人にやがて征服されて行くのでした。オーナーが大好きな北天の雄「アテルイ」の一族(蝦夷)は、縄文人(=原日本人)の末裔と云われています。縄文人ってスゴい!

三内丸山遺跡にご興味のある方は下記のサイトも是非ご覧下さい。https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/door/

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